薬害エイズ事件

参考:「薬害エイズ事件への不当諸判決」杉原一男、薬害エイズ 戦慄のシナリオ、薬害エイズ事件、最高裁判決など

血友病患者の治療において、1970年代末になると国産のクリオ製剤よりも簡便な濃縮凝固因子製剤が登場して使用されるようになりました。しかしこれらの製剤にはウイルスを不活化するための加熱処理はされていませんでした。そしてこの中にエイズウイルス(HIV)が混入していました。

1983年2月厚生省が血友病患者の血液凝固自己注射法を許可して、アメリカから輸入された危険な非加熱製剤は、血友病専門医や製薬会社の社員の指導のもと、大量に使用されました。
1985年7月安全な加熱製剤の認可後も、危険な非加熱製剤はただちに回収されることなく使用され続けました。

厚生省が承認した非加熱血液製剤にHIVが混入していたことにより、主に1982年から85年にかけて、これを治療に使った血友病患者の3割、約1400人もがHIVに感染し、その結果500人以上が死亡しました。被害者はいわれなき偏見により差別を受け社会から排除され、さらに感染告知が遅れ、発病予防の治療を受けなかったことに加え、二次・三次感染の悲劇も生まれました。
1989年5月、被害患者とその遺族は、非加熱製剤の危険性を認識しながらも、それを認可・販売した厚生省と製薬企業5社を被告とする損害賠償訴訟を起こしました。

1990年12月イギリスで、HIV訴訟は国と和解しました。

1992年12月フランスで、HIV訴訟は国と和解しました。

1994年4月、96年2月に死亡した患者の母親が安倍英・帝京大学副学長を殺人罪で告発しました。

裁判では厚生省や製薬企業がひた隠しにしてきた事実が次々に明らかになり、また提訴者も次第に増えていきました。社会からの支援も日増しに大きくなり、『薬害エイズ事件』は一大社会問題に発展していきました。

若い原告・川田龍平さんの実名公表や弁護団の様々な仕掛けが実を結び、「フツーの学生」「フツーの市民」を巻き込んで大きなうねりとなって行きました。毎日どこかで弁護団の誰かか呼ばれて講演をしていました。「ラップのパレード」もあった。「はがきの嵐大作戦」なんて命名した運動もあった。支援者達がどんどん自分たちなりの運動を工夫したのである。もちろん署名も、自治体決議もあったし、「座り込み」もありました。先人に学びながらも既存の組織に依存しない、新しい運動をつくろうとした。政党との距離もしたたかな全方位。「政府与党を動かす」これに何が必要かを考えた。マスコミ対策も当初から担当を決め位置づけました。

当時高校生であった川田龍平氏は、1995年3月実名を公表し、同年7月に3500人とともに「あやまってよ'95人間の鎖」で厚生省(当時)を何重にも取り囲みました。高校生、大学生、普段政治に無関心な人びとが、手を取り合い、ともに声を上げました。
こうして日本国中を巻き込んだ社会の大きなうねりは裁判所も揺り動かし、1996年3月被告が責任を全面的にに認め和解が成立。国は被害者救済を図るため原告らと協議をしながら各種の恒久対策を実現させることを約束しました。

和解成立後、1996年8月に安倍英氏は逮捕、1996年9月にミドリ十字の代表取締役3名を逮捕、10月に厚生省の松村元生物製剤課長を逮捕されました。薬害エイズ事件に捜査当局のメスが入り、「帝京大学ルート」、「ミドリ十字ルート」、「厚生省ルート」の3ルートの刑事裁判が始まりました。

2001年9月、一審判決が出ましたた。
地裁は非加熱製剤の危険性を認識できた時期を1985年12月末と判断し、「帝京大学ルート」については無罪とした。
「ミドリ十字ルート」、「厚生省ルート」については有罪で、禁固1年、執行猶予2年としました。(双方が控訴)

安部英帝京大学教授は、2001年の一審で無罪となりました。無罪判決が言い渡された判決文では、「ギャロ博士やモンタニエ博士ら世界の研究者の公式見解から、事件当時の1985年はHIVの性質やその抗体陽性の意味に不明点が多々存在しており明確な危険性の認識が浸透していたとはいえないこと」、「代替治療法としてのクリオ製剤には治療に様々な支障があったこと」、「安部医師を告発した元医師の供述については、『事件当時の1985年前後に非加熱製剤とHIVの関連を予期する発言や論文が見られない点』や、『非加熱製剤とHIVの関連を予期する供述は、当時の専門家の認識から突出している点』から、検察官に迎合した疑いを払拭し難く、不自然で信用性に欠けること」などがあげられました。

一審で無罪になった後、検察が控訴しまたが、 2004年2月、東京高等裁判所は「脳血管性障害などによる痴呆に心疾患等の身体的障害が加わり、刑事裁判を続ける能力はない」として公判を停止して事実上、裁判が終結しました。2005年4月に安倍氏は死亡しています。

2008年3月松村氏に対して、血液製剤等の生物学的製 剤の安全性を確保し,その使用に伴う公衆に対する危害の発生を未然に防止すべき 立場にあったが、非加熱製剤の回収が遅れたことに対して不作為的過失があったとして、最高裁は上告を棄却しました。

「ミドリ十字ルート」の最高裁判決では「非加熱製剤の危険性が予見できたにも拘らず、製剤の販売中止と回収の指示を怠った責任を免れない」という結論に至りました。